これまでの道のり

オーナー  坂本 秀樹
猫と一緒に

猫ともなかよし⁈

1972年 熊本県大津町に生まれる。   

それまでは野球少年であったが、高校入学を機に馬術部に入部。
以来どんなに怪我している時でも部活だけは休んだことがないほどの熱中ぶりで、学校に行く=馬術部に行くというような高校生活であった(笑)。

インターハイは惜しくも3位に終わったが、そこからひたすら馬一筋の人生が始まる。

高校卒業とともに東京乗馬クラブに就職、その後高校時代の恩師の紹介で茨城の中島トニアシュタールへ。
雪の降る寒い中、どこへ行くのかも聞かされず、馬運車の後ろにわずかな家財道具とともに押し込まれて連れて行かれたあの日。

装蹄もやります

それまで首都高の真下という騒音の中で暮らしていたのが一変、辺りはし~んと静まり返り、聞こえてくるのはカエルの鳴き声ばかり。

なんてところへ連れて来られてしまったんだろうと寂しくなった。
若さゆえに自身の力を過信していたあの頃。
最初は社長の技術に対しても、大したことないだろうとナメてかかっている自分がいた。

ところがいざ日々の仕事が始まってみると、そこに養われている馬たち、乗用馬ではなく競走馬でさえも動きが柔らかく、躍動していて目を見張る。
それが馬術の本物を見せつけられた瞬間であり、生涯の恩師との出会いであった。

ドイツで本場のブリティッシュ馬術を体得してきた故・中島又男氏。
小柄ではあるが鬼のように厳しい一面と、冗談で皆を笑わせるユーモアの持ち主で、クラブにはいつも豪快な笑い声が響いていた。

お産馬房工事中

お産馬房工事中

この人と決めたら一途に尽くす坂本の性格は、次第に社長との強い師弟関係を築いていく。
中島社長が履いた後の長靴(ちょうか:乗馬用ブーツ)はいつもかかさず磨き上げた。
社長が馬に騎乗すれば、掃き掃除をしながら、ボロ取りをしながら、必死に目を向け、技を盗もうと夢中だった。
休みの日にはチャンスとばかりに、社長が手を入れた馬をこっそり引き出し黙って跨ってみたことが度々あったが、それを見つけた社長は、怒らずむしろ喜んでくれたという。 

そんな生涯の恩師がよく口にしていたのは、「本物のトレーナーとは、自分が競技会に出て発表するのではなく、自分が作り上げた人馬を発表することに喜びを感じなくてはならない」ということ。
その言葉通り、自身はほとんど競技会などには出場しておらず、すばらしい技術を持ちながらも馬術界ではあまり知られていない。
弟子としては歯がゆくもあるが、最期まで見事に有言実行を貫いた人であった。

茨城での7年間は、馬の育成技術、調教技術を本格的に学びながらあっという間に過ぎていった。
その頃は乗用馬だけでなく競走馬も70頭ほど育成されており、若馬の鞍付け調教担当として一日中格闘していた。

ここへ来るまでは厩舎管理が主でなかなか馬には乗せてもらえない現実の中にいたが、中島トニアシュタールでは一変、日中は競走馬、それが終わると夕方から乗用馬の調教が仕事となる。
体はくたくたに疲れる毎日であったが、朝から晩まで馬上にいる日々に感謝と充実感でいっぱいであった。

平成6年には馬場馬術日本オリンピック強化指定選手となり、愛知国体では総合馬術競技で2位入賞を果たす。

ヒマワリで障害飛越

これが本職 大会にて

その後、平成9年に独立。
地元熊本に戻り念願の乗馬クラブを、とは言っても、最初から乗馬クラブ一本では難しいため、競走馬の育成調教から手掛け始める。

なんのつてもない始めは、県内の生産牧場に頭絡(とうらく:馬の頭につけ指示を伝える道具)と鞍を持参して赴き、そこで調教させてもらえないかと頭を下げお願いした。
馬で生きていくために、とにかく必死だった。

少しづつ信用してもらえるようになると、自分の建てた厩舎に馬を預けてもらい、調教に励む。
同時に自身も、信頼できる獣医師の勧めのもと競走馬の生産育成に取り組み、馬を一から育てる技術も身に着けた。

平成17年には、当乗馬クラブの生産馬がサラブレット系2歳新馬戦で優勝するという、輝かしい結果を残すこともできた。

経営のために必死で取り組んだ競走馬の育成であったが、丁寧な飼育管理と調教技術が買われ、徐々に預託馬が増え、一時は厩舎が満タンで馬が入りきらないほどであった。
が、幸か不幸か、そちらに忙しすぎて乗馬の方までは手が回らず、その頃はほんの一握りのお客さんが訪れる程度であった。

ジュニアのみんなと

ジュニアのみんなと

それからさらに4年後、転機が訪れる。

地元競馬場がついに閉鎖となり、競走馬の数が激減。
合わせてクラブの前の道路拡張工事が始まり、それに伴って次々と住宅が建ち出すと、静かな環境が必要な若馬の育成調教は難しくなった。
悩んだ末、念願の乗馬クラブ一本化を決意。競走馬の育成をやめてやっていけるかどうか不安ではあったが、家族の協力のもと少しづつお客さんが増え、乗馬クラブとしての再出発を果たすことができた。

馬術第一線で華々しく活躍してきた連中と比べると、かなり遠回りをしてしまったようにも思える。
が、あの頃の経験があるからこそ一からの馬づくりができ、馬術に携われることのありがたみをしみじみと感じることができると考え、現在に至る。